追悼 佃 悦夫 遺句抄

『海原』No.79(2026/6/1発行)誌面より

追悼 佃 悦夫 遺句抄

緑陰は童話の終末翔ぶ白布 『空の祭』(昭44)
採氷夫一樹さえ無きねむりの場
ウサギ飼い身に清潔な水たまる

淋しめば天井落ちてくる山国 『身体私記』(平16)
青桐の夕ぐれは霊場を装う
淋しくて毛虫突然破裂せり
冬の山あるいは暗黒装置であり
騎馬戦と椋鳥ぼうぼうとまじる
人体は朝日の独壇場と化す
青蜥蜴息を殺した華である
大停電地帯となりぬ花菜畑
白鳥に猛き山伏まじりいる
ブラックボックスの静寂を曳き芋虫は

心臓の構造である夜店かな
初夏や相模の朝日搾りたて 『赤ちゃん』(平27)
赤ちゃんの螺旋構造霜柱
朧月足裏を見せてみな眠る
銀河系源流より妻嫁し来しか
 妻よ(二句)
白桃と生き写しとも言われいし
月光に激突猫の全体が
 「海原」5月号
(堀之内長一・抄出)

感性の輝きに満ちた俳句人生 堀之内長一

 佃悦夫さんが他界された。本来であれば、盟友の木村和彦さん、谷佳紀さんに追悼文をお願いするところであるが、もはやその両氏も先立ってしまった。晩年の佃さんは、耳や歩行の不自由を抱えたこともあり、句会等でお目にかかることもほとんどなくなってしまった。まず佃さんの輝かしい俳歴を紹介する(句集『赤ちゃん』所載の略歴より)。
 昭和9年、静岡県伊東市生まれ。昭和11年、小田原へ移住。以後小田原に在住。昭和26年高校文芸部顧問の野村浜生より俳句の手ほどきを受く。卒業後、いくつかの俳句結社を遍歴。昭和37年「海程」2号より一句組として入会。以後一貫して「海程」に所属。第2回海程新人賞、第8回海程賞。昭和51年、第23回現代俳句協会賞。句集に『空の祭』『身体私記』『赤ちゃん』など。
 そのほか、NHK学園俳句講座講師、現代俳句協会研修通信句会講師、現代俳句協会賞選考委員、現代俳句新人賞選考委員、現代俳句協会理事、神奈川県現代俳句協会顧問を歴任。なかでも、地元・小田原俳句協会会長を30年余務められ、平成28年度小田原市民功労賞を受賞された。まさに小田原に佃悦夫ありき、という俳句人生だった。
 金子兜太先生より「海程」廃刊の意志が伝えられた後、海程会のメンバーで後継誌問題を検討する話し合いが行われた。平成27年のことである。所用で欠席された佃さんから一通の手紙が届いた。その一節に〈「海程」は先生のカリスマ性に引き寄せられた人々の集団であり、先生が引退されると一気に、その強力な緊張は弛緩すると思われます。…… 「本格・平明・新鮮」「古き良きものに現代を生かす」スローガンをあくまでも継承して行きたいこと、誰よりも私は強く念じていますが、それは個々人の覚悟として心中に焼き付けて行くほかは無いように愚考します〉とあったことを懐かしく思い出している。
 初学のころ〈青蜥蜴息を殺した華である〉の一句に震撼された私にとって、佃悦夫はいつも感性の塊のような水先案内人であった。
 金子先生を囲み、木村和彦さんや谷佳紀さんも交じって、他界の句会はさぞやにぎやかで楽しいことでしょう。
 令和8年1月27日逝去、享年93。

桜が咲きました 河原珠美

 神奈川県小田原市にお住まいの佃悦夫さんの訃報がもたらされたのは、思いがけず春の雪が降った日のことだった。一月二十七日夕刻、御子息の電話に出られなかったのを不審に思って、お尋ねになられたという。救急搬送の甲斐もなく、旅立たれたのだった。診断は「大動脈解離」。享年九十三でいらしたとうかがった。あまりにも急な旅立ちでいらしたので、俳句関係への訃報が行き渡るのに時間がかかってしまったという。
 私が佃悦夫さんと出会ったのは、昭和が平成に変わったばかりの頃だった。まだ「海程」にも入会していなかったが、森田緑郎さんの勉強会に参加させて戴いたことが、佃さんとのご縁の始まりとなった。
 ある時、神奈川県松田町の町民会館がリニューアル・オープンした。その時の記念事業の一つが、金子兜太先生の講演会だった。当時俳句は大ブームで、カルチャーセンターでの俳句教室も入会待ちの盛況。現代俳句の騎手などと、大忙しの金子先生でいらした。
 この講演会の仕掛人こそが、佃悦夫さんその人であった。もちろん「海程」同人でいらしたが、当時から佃さんは、小田原俳句協会の会長を務められていた。神奈川県西部地域は、小田原俳句協会を中心に、新旧とりどりの俳句会が交流していた。それでも、前衛の旗手と称えられる金子兜太先生の講演会に人が集まるだろうか、という懸念も僅かながらあったようで、近郊の海程の人に動員がかかった。そんな訳で私も、森田緑郎さんに連れられて行くことになったのだった。
 金子先生は「芭蕉忍者説」のような講演をなさったのだが、会場は満員。大いに盛り上がって終始笑いが絶えず、大幅に終了時間が遅れることとなった。
 初めてお目にかかった佃さんは、終始ニコニコなさって、偉ぶることのない方で、優しい口調のお声が印象的だった。それからも何かとお世話になることが多かったが、いつも丁寧で率直。誰にでも公平な姿勢で臨まれたので、小田原俳句協会の方々にも信頼されておられた。「僕の師匠は佃さんしかいません」とおっしゃる方も多い。甘党でいらした佃さんは、二次会の席で、いたずらっ子のように、こうおっしゃった。「河原さん、僕たちはもうチョコレートパフェにしない?」
 仲良しの木村和彦さんに先立たれて、最近はお耳も遠くなられ、句会にもいらっしゃらなくなっておられたそうだ。
 佃さん、小田原城の桜が咲きましたよ。佃さんの金子兜太先生への追悼句を御披露させていただきますね。
  狼も蛍も須臾の間なりけり 悦夫

佃悦夫さんを悼む 武田伸一

 佃悦夫さんは、昭和三十七年四月、金子兜太が主宰する「海程」が創刊されると直ちに入会。その二年目に当たる三十九年には、アルゼンチン在住の崎原風子と共に、第二回海程新人賞を受賞している。
  緑陰は童話の終末飛ぶ白布
  足跡が灯る砂丘の底の母校
 そして十一年め、待望の海程賞を奥山甲子男と共に受賞する。
  川あつめる村の銀杏は太陽の茎
  採氷夫一樹さえ無きねむりの場
  草むしり白き寺院が浮沈する
 そして、さらなる飛躍が佃を待ち構えることになる。すなわち「第23回現代俳句協会賞」(昭和五十一年)の受賞である。これまでは、時代の先端を行くと言いながら、一結社での出来事。今度はさらに大きな賞の獲得である。これは佃のみならず、奥山甲子男、竹本健司、渋谷道、岸本マチ子、前川弘明、安西篤など、後につづく昭和世代の作家たちに、どれほど希望の灯を灯し、どれほどの奮起を促したか計り知れないものがあった。
 佃さんへの弔辞はこれで終わるが、武田個人としては、次のことも加えて結びとしたい。
 佃は昭和九年九月の生まれ。武田は昭和十年一月の早生まれ。従来なら、昭和十六年四月に、それぞれ尋常小学校に入学のはずが、この年度からの学制改革で、国民学校の最初の一年生に入学した。そして、その年の十二月八日には日本軍の真珠湾の奇襲によって、太平洋戦争が勃発。昭和二十年八月の敗戦まで、戦時下の教育にて、教科書の墨塗りも体験した。戦後の学制改革では、六三三制度の最初の中学一年生。新旧教育の区別も定かでない中で新仮名遣いの教育を受けた。だから、佃の創る俳句も現代仮名遣い、武田が生む俳句も現代仮名遣い。二人ともそれでずうっと通してきて、なんの違和感もないのである。
 ああ、戦友にも似た時代の子同士よ、私がそちらに行くのも、そんなに遠い日のことではないはず、待っていてほしい。

俳句という詩型について
―佃悦夫句集『空の祭』のあとがきより

 佃悦夫の第一句集『空の祭』が刊行されたのは一九六九(昭和44)年、35歳の時である。句集のあとがきから、若き日の俳句に対する考え方を紹介する。 
  ◇
■俳句という詩型を選択するようになってから十七年近い年月が経ってしまった。この十七年は、そのまま僕の青春であった。俳句とはいかなる詩型か文学的な自覚なしに俳句を作り始めたのだが、僕にとって、俳句とは何か、わからぬままに、いまだに自問しつづけているのである。たしかに、孤独なわが青春にとって貴重な代償であり得たが、妻を娶り、子を得た今日、わずか十七音の詩型に執着しているのはなぜか。人間疎外の時代と人は言うが、僕にとって簡単に論理的に割り切れる問題ではなさそうだ。この詩型に絶えず疑問を抱きつつ今日の岸辺に佇っている、というのが偽りのない実感である。守旧的な俳句を当然のことのように作っていた初期から、十年近く経過して、もはやどうにもならない谷間に立たされたことがあった。何の不思議もなく、有季定型を遵守してきた僕にとって、興味は感じつつも、一種の感情的ともいえる異和感の眼差しで眺めていた前向きの作家の作品が、このときほど親近感をもって迫ってきたことはなかった。自分の膠着した文体を徹底的に破壊してみようと思った。小市民はいつも保守的であるという。僕は少なくとも俳句の上では、善良の仮面をかなぐり捨てて、破壊者たらんと志向したわけであった。この時期に兜太先生に巡り会うことが出来たのは、まことに幸いであった。
■俳句は文学史上の或る時期に、突如として出現した詩型ではない。きわめて当然の事実であるにも関わらず、そのことに無自覚の自分であった。詩の発生の原因が祭祀にあったかどうかは措くとしても、俳句の淵源が、はるか文字として記録される以前に口に誦んじられていた時的に溯ることが出来るといっても言い過ぎではあるまい。長い歴史の流れの中で揉まれつつ今日の俳句の姿になったのだ。もちろん、ただいまも流動して止まない詩型なのである。
 俳句は永久不変ではない。
■現在の僕は季題をセンチメントに意識している善良な作り手ではない。決して永くはないが、やや屈折した十七年を閲しての態度なのである。日本の季節は、それぞれ美しいことには違いない。ことに最近になって、自然の美しさに惹かれている自分に驚くことしばしばである。なかんずく、夏はすべてが生の躍動感に満ち満ちているので好きである。その日本の夏に、ずぶりと自分を浸して、夏の素晴らしさを満喫している現在だが、それも自分という人間の存在があるからこそ、実感するのだと思う。純粋な人間という存在の内質を攻め、詩として昇華させたいと思う。
■また、この最短定型を存分に駆使して、なお、自分の文体を創り出す段階に来ているとも思う。そして他のいかなる作り手とも異質の手法を発見して行きたい。
(以下、省略)

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